トイレ磨きは心磨き      HOME 技術資料室 技術用語
    (鍵山秀三郎 イエローハット取締役相談役 日経新聞2006年3月)
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 国籍や人種を超えて喜びを分かち合える。「掃除」が秘めたそんな特質を身をもって知ることになろうとは、45年前、一人で会社のトイレ掃除を始めたころには思いも寄らなかった。

<考え方まで一変>
 「私は昨日まで日本人が嫌いだった。祖父が日本兵に殺されたから。しかし、今日から考えが変わった」。北京で1997年以来、7回開いている「中国掃除に学ぶ会」で、ある時、参加した大学生からこんなことを言われた。 会は日本から有志が中国に出かけ、公共トイレを徹底して掃除するとともに、活動を紹介する講演会を催している。掃除に、日本人を敵視する学生の考えを変えるほどの力があることに、私自身、とても驚いた。

 私が掃除を始めたのは、自分で創業した会社で自分の理想の実現を考えたのがきっかけ。理想とは会社の活動を通じ、社会を良くし、人を幸せにすることだ。
 自動車用品卸売りの「ローヤル」(イエローハットの前身)を1961年に創業したときに、理想の会社作りにまず必要なのはいい人材と考えた。だが、出来たての会社がいい人材を確保するのは至難の業だ。集まったのは、いくつもの会社を渡り歩いた末に心がすさんでしまった人が多かった。

 終戦直後、私たちの一家はぼろぼろの小屋に住んでいた。だが、潔癖な性格できれい好きだった両親は住まいの掃除を徹底していた。だから、戦後の荒廃の中で惨めな気持ちにならずに済んだ。
 この経験から社員の心を穏やかにする方法として、職場をきれいにする掃除に思い至った。だが、私は言葉や文章で物事を伝えるのが苦手。また、号令をかけてむりやりやらせるものではないと考え、自分一人で始めることにした。 しばらく社員の評判は芳しくなかった。私がトイレ掃除をする横で平気で用を足す。「社長は掃除しかできない」との声も聞こえてきた。それでも私は掃除を続けた。

<親の背中を見せる>
 10年を過ぎると、社員の態度が変わり、トイレ掃除を自主的に始めるようになった。反抗しつつも、親の背中を見て育つ子どものようなものだ。掃除をして、美しいトイレの心地よさを知ると、オフィスも汚い状態にしておくわけにはいかなくなる。会社全体がみるみるきれいになった。
 トイレ掃除をするときは、いつも素手である。手袋をしないのは、感覚を鋭敏にするためだ。素手なら便器にこびりついた髪の毛一本でも逃さない。便器は熱湯を流して洗剤とスポンジで洗うが、なかなか落ちない水あかや尿石はナイロンタワシやサンドメッシュで徹底的に磨き上げる。
 ぴかぴかになったトイレを前にした時の爽快感と達成感は最高だ。トイレだけでなく心まで磨かれる。どんなに汚いものでも美しくなることに気づき、汚いものへの接し方が変わる。

 岐阜県恵那市の配線基板メーカー、東海神栄電子工業の田中義人社長とお会いしたのは、1991年11月。雑談の中で汚さが話題になった田中さんの会社を訪ねてみた。田中さんは入り口で「長靴に履きかえてください」と言う。床がとんでもなく汚いからだ。私が「最初から汚かったわけではないでしょう」と尋ねると「そうです」。ならば、きれいにできるはずだ。私は掃除の効用を説いた。共感した田中さんは全社員を私の元に掃除研修に来させた。
 翌年8月、再び田中さんの会社を訪ねた。やはり「靴を脱いでください」と言う。ただし「靴のままではきれいな工場が汚れるから、スリッパに履きかえてください」。一年で工場はがらりと変わったのだ。

<1993年に「学ぶ会」発足>
 田中さんの主導で1993年11月、岐阜県明智町(現恵那市)に全国初の「掃除に学ぶ会」が発足。現在、会は都道府県単位に増え、中国、ブラジル、米国、モンゴル、台湾など海外にも広がった。
 ブラジルに活動が広まったのは、1995年の阪神大震災の時、サンパウロ在住の日本人美容師、飯島秀昭さんが支援のため一時帰国したのがきっかけだ。私は飯島さんと被災地のため込み式のトイレを掃除した。悲惨なほどに汚れがこびりついた便器を、私たちはサンドメッシュで磨き上げ、ぴかぴかにした。
 飯島さんはその時の感動をブラジルに持ち帰った。翌年2月、私は仲間の日本人と一緒にサンパウロに渡航し、飯島さんが集めた現地の日本人と「ブラジル掃除に学ぶ会」を発足させた。
 昨年「第1回世界大会」と銘打ってサンパウロで開いた会には実に5千人が集まった。掃除には人種や国籍の違いを乗り越える力があることを改めて確信した。
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